村おこし

お茶と清流の里、新宮村

株式会社やまびこは新宮村の村おこしに取り組んでいます。

新宮村って?

四国の愛媛県に四国中央市新宮町という町があります。
平成16(2004)年までは宇摩郡新宮村という独立した自治体でしたが、平成の大合併政策で近隣市町である川之江市、伊予三島市、土居町と合併する道を選ぶしかなかった地域です。
現在すでに「新宮村」という自治体は消滅していますが、株式会社やまびこではブランド名として「新宮村」を大切に守り続けています。

新宮村は愛媛県の東端にあり、南は高知県、東は徳島県と接した、総面積78.8km2の小さな村です。

マップ
棚田

棚田 ©佐藤雄二

新宮村の歴史

古くは弥生時代には集落が開けていたことがわかっています。
7世紀には都からの官道・南海道が開通し、新宮村内にも駅が置かれました。
この古代道はすぐ廃れましたが、それに近いルートが江戸時代中期の享保2(1717)年になって土佐街道として復活し、村内には土佐藩主山内氏が休息、宿泊したとされる馬立本陣跡も残っています。
この土佐街道を通って、土佐の後発酵茶である碁石茶が讃岐に運ばれるなど、土佐と讃岐を結ぶ茶と塩の物流を支えてきました。
その後この街道は、昭和になって自動車道ができるまで村民の生活道として大切に利用されてきました。

旧土佐街道

旧土佐街道

新宮村はそもそも古美村と呼ばれていましたが、大同2(807)年に紀伊国新宮(現・和歌山県新宮市)から熊野神社を勧請したことにより古美新宮村、ついで新宮村と呼ばれるようになったといいます。
新宮村の熊野神社は四国で最も社格の高い神社のひとつとされ、四国の熊野信仰第一の霊場として四国の大半を信仰圏として隆盛を極めました。
新宮村にはこのほか奥之院仙龍寺があって、弘仁6(815)年に弘法大師空海が護摩修行を積んだとされる岩窟跡に懸崖造りの立派な本堂が建ち、一説には四国霊場八十八カ所の総奥院であったと伝えられます。

これらのことは新宮村が四国の信仰の中心地、すなわち思想、文化の最先端地であり、また政治にも深く関わった地だったということを示しています。

熊野神社

熊野神社 ©佐藤雄二

奥之院仙龍寺

奥之院仙龍寺 ©佐藤雄二

村内は明治初期には東新宮村、西新宮村、新瀬川村、馬立村、上山村の5村に分かれていましたが、昭和29(1954)年に全村が合併して新宮村に、そして平成16(2004)年に川之江市、伊予三島市、土居町と合併して四国中央市新宮町となりました。

新宮茶

江戸時代から明治時代にかけて新宮村では焼畑農業やタバコ、漆、銅などの鉱業が盛んでしたが、昭和26(1951)年、タバコに代わる農作物として新宮茶の栽培が始まりました。
川の朝霧が立ちこめる地形だったこと、排水のよい傾斜地で風化土壌であったこと、古来ヤマ茶が自生していたことなどお茶栽培に適した条件をいくつも備えていたことから、当時の村長が静岡から茶の種を取り寄せて村内農家に配って栽培を始めました。
お茶は山で摘んでくるものというのが常識だった新宮村で、はじめて畑地に茶が栽培されたのです。

さらに昭和29年、新宮村は愛媛県の農事試験場から白羽の矢を立てられ、新しいヤブキタ種が静岡から導入されたのです。
県内各地で同じヤブキタ種の導入が失敗したそうですが、お茶栽培の中心人物として参画した脇久五郎氏が3000本の苗木を植え、その後数々の試行錯誤を繰り返した結果、昭和34年に初収穫された新宮茶は静岡県茶業試験場において「香気日本一」の折り紙がつけられ、現在にまで通じる新宮茶の礎を築きました。

茶園史の碑

茶園史の碑

茶苗木配布の証

茶苗木配布の証

しかし知名度のない新宮茶は売れず、最初は茶問屋から買いたたかれるなど辛酸をなめました。
そこで脇氏は、問屋を通さず消費者に直接販売する道を選び、新茶が採れるたびお茶好きの個人に一煎ずつ贈って新宮茶の宣伝に尽力したといいます。

それが成功し、新宮茶が次第に認知され始めるのですが、より販路が拡大したきっかけは無農薬栽培の取り組みでした。
当初は静岡で習った栽培方式をそのまま踏襲していたため、虫が出れば農薬をかけるのが当然でしたが、傾斜地がほとんどで農薬散布が面倒だったため、気がつくと今でいうところの低農薬栽培になっていました。
地元の生活協同組合が積極的に新宮茶を取り扱うようになり、組合員との懇談の中でいっそのこと低農薬ではなく無農薬にしてみてはどうかという話が出たのが無農薬栽培の起こりだったそうです。
たまたまその頃、都合で1年間茶畑を放置したことがありましたが、お客さんが視察に来るというので、放置していた茶畑を前日にきれいに剪定したところ、わずか一夜にして茶畑一面にクモの巣が張り、それを見て天敵利用を思いついたといいます。
クモは茶樹につく害虫にとっては天敵ですが、農薬をかけていればクモは1匹もいなかったでしょう。

茶畑

茶畑

昭和58(1983)年に踏みきった無農薬栽培は3年後には村内全戸に広がり、現在ではクモの他、ハチやテントウムシなどさまざまな天敵の力を借りて、自然の生態系を利用した農法が定着しています。
もちろん無農薬で栽培するには虫害だけではなく病害にも耐えられる茶樹を作らなければならず、そのために化学肥料を減らし有機物を潤沢にすきこむなど土壌から作り替えねばなりませんでしたが、そうした筆舌に尽くしがたい苦労の連続が新宮茶の現在を支えています。

手もみ茶

伝統を今に伝える手もみ茶

平成12(2000)年には、中国浙江省で開かれた「国際銘茶品評会」の緑茶の部で最高栄誉の金賞に輝き、新宮茶の香りの高さが名実ともに世界一と称されるまでになりました。
さらにその評価に甘んじることなく、平成30年には紅茶や烏龍茶の製造にまで新宮茶ワールドが広がりを見せつつあります。

新宮村の四季

川辺の春
川辺の春 ©佐藤雄二
新緑
新緑
山焼き
山焼き ©石川文則
茶摘み
茶摘み ©佐藤雄二
長い冬が明けたことを祝うかのように、新宮村の春は圧倒的な花と新緑で幕を開けます。新宮村の春の風物詩・山焼きは、炎の帯と煙が約20haもある塩塚高原を2時間かけて包み込む壮大なスケール。
霧立つあじさいの里
霧立つあじさいの里
川遊び
川遊び ©佐藤雄二
鉦踊り
鉦踊り ©佐藤雄二
幽玄な山の斜面に植わった2万株のあじさいが夏の始まりを告げます。夏の盛りには川遊び。美しすぎる川に子どもは大はしゃぎ、大人はうっとりのんびり。夏は無形民俗文化祭「鉦踊り」で幕を閉じます。
秋祭り
秋祭り ©佐藤雄二
金色のじゅうたん
金色のじゅうたん ©佐藤雄二
煌めく高原
煌めく高原 ©佐藤雄二
京の都から伝わったとされる天王さんの秋祭りは公家装束がきらびやか。屋台揺らしが祭りの最高潮。県天然記念物の大木・お葉つきイチョウは、散らす葉っぱも豪快。まるで美しい金色のじゅうたんを敷いたよう。春の山焼きのおかげで、高原は見渡す限り一面のススキが黄金色に輝きます。
雪景色
雪帽子
雪景色
雪景色 ©佐藤雄二
餅つき
餅つき
南国四国といえど、内陸の新宮村の冬は冷え込み厳しく、朝起きたら一面の雪景色ということも珍しくありません。